アルス・アルマルという小さな少女について。

とても幼く 体も小さく 一人きりの少女

少し前の話になるが、アルス・アルマルが3Dお披露目で歌った。正直感動した。

彼女は当然のものを当然のように持てなかった者だ。と僕は思っている。

一芸を持つのが普通となってきた最近のVtuberの中では珍しいことに、彼女はわかりやすい武器を持たない。Vのメインコンテンツであるゲームに関しては、サンドボックス系のゲームをコツコツやっている限りはなかなか魅せてくれるが、その手の長時間配信を追い続けるのは辛い人も多いだろう。そしてFPSやアクションなどの華があるゲームは下手ではないといった程度。Vの武器となりうる声質はある種クセになるものを持っているものの、致命的に滑舌が悪かったり音域が極端に狭かったりと難アリ。さらに極度の陰キャでコミュ障のくせにキレ芸煽り芸泣き芸は一人前と、属性だけを並べていくとダメなヲタクのお手本のような状態である。そんなキャラクター性からして当然といえば当然の事か、歌には極度のコンプレックスがあるらしく、歌う事には明確な拒否感を示していた。

さて、ここで下世話な話をしよう。欠点は突き抜けると美点となるという事だ。たとえばシンプルに健常から外れるほどの短所を持っている人。この人たちは並の事を並にやれるだけで称賛される。弱者が人並の事を人より努力して達成する事には価値があるという事になっている。それ自体を悪いとは言わない。ここで問題となるのはそのカテゴリに当てはまらない程度の短所を持っている人間はどう救済されるのかという事だ。彼女は障碍者のように分かりやすく弱者ではない。しかし、人付き合いをする上で色々な要素が少しだけ足りない。飛びぬけて得意な事を持たず、万人に受け入れられやすいキャラクターも持たず、滑舌から意思疎通に難がある。そんな彼女は人より少しだけ苦労して、それでも得られる成果は十人並みで称賛される事もなく過ごしてきたのではないだろうか。僕はそんな抑圧と諦観を彼女の陰キャぶりに見る。

しかし彼女はへこたれなかった。クソマロを笑い飛ばし、頭がデカいと煽られ、コミュ障の芸人枠と扱われても、向こうからやってくる煽りや悪意にはプロレスを行いながら、自分から誰かに悪意を投げつける事はなく喜怒哀楽を隠さずにさらけだしてきた。そんな彼女自身のパーソナリティに触れて行くに連れて、アルスの森ができるほどのマイクラへの情熱、マリオカート杯での悔し涙、ARKでの特異点ぶり、煽りやネタ振りへのウィットを感じさせる返し、もちもちと評される独特の声質、ろあるまりんでのお姉さん感、エビマルの不器用な距離の縮め方、ぶるーずへの思い入れ、そんなたくさんの彼女の魅力をリスナーは見つけてきたのだ。

直近である意味伝説となった社長のものに比べれば、彼女の3Dお披露目は陳腐だったとすら言えるかもしれない。だがそこには「社長のお披露目はすごかったけど、僕は僕らしいお披露目をできればいいと思ってる」と語った上で避け続けてきた歌に挑戦する気弱でコミュ障だった小さな少女がいて、その過程を一緒に見つめてきて、成果物のレベルなど関係なく喜ぶリスナーがいた。そしてそれが再生数、同時視聴者数という「普通」の基準でも受入れられて祝福されていた事。そこには普通にも特別にもなれない事への赦し、その事に負けなかった強さへの敬意があったように思う。それは走り続け追い続けてきた者だけが受け取れるカタルシスであり、ギフトであったのだろう。

もう一度言おう。彼女は当然のものを当然のように持てなかった者だ。
記号化された弱者という立場すら持てなかった普通の事が普通に足りなかっただけの小さな少女だ。
だからこそその普通に負けなかった彼女の稚拙で透き通った歌声は胸を打つのだ。

それはスキル的にプロフェッショナルではなくとも、エンターテイメントとしてプロフェッショナルである事に疑いはないと、僕はそう信じている。

でもやっぱ頭でけぇな。